説教要約(5月)

2023年5月28日(日)  説教題:「神の霊によって」    聖書;ローマの信徒への手紙8章10~17節
 ローマの信徒への手紙8章では十字架によって贖われた私たちが、神の霊によって新しくされることが書かれています。聖霊によって歩む新しい道は、肉ではなく霊への義務を果たす生き方です。これは罪からの解放と自由を与えます。このことはとても恵まれていますが、それと同時に楽ではない道のりです。17節には神様の子として歩む者は「キリストと共に苦しむ」と言われています。キリスト者は自分で努力したから救われるのではありません。聖書の言葉を忠実に守って生きていくことによって、素晴らしい人間になれるわけでもありません。私たち人間はどれだけ努力しようとも、良くない存在です。それでも、ただ神様は愛して救ってくれている。こんな自分みたいな、どうしようもない人間でもただ選んで立ててくださる。これはとても恵まれていることなのですが、かえって努力して救われる方が単純明快な気もしてまいります。目に見えない救いを求めるよりも、目に見える努力目標を達成するほうが簡単だからです。そのような意味でもイエス様を信じていくことは、ここにあるように苦しみを伴うものであると言えるでしょう。
 キリストと共に苦しまなければならない。そのように考えると、イエス様と信じて生きない方が幸せなのではないかと考えてしまいます。ですが、ここで考え方を少し変えてみましょう。「キリストと共に苦しむ」ということは、「キリストのように私たちが苦しむ」ということではありません。「私たちのようにキリストが苦しむ」ということです。
 聖霊という命によって新しくされた私たちの原動力はキリストです。そのキリストが私たちの内にずっといて、私たちが覚える苦しみの一つひとつを共に苦しんでくれます。他の誰が共に悲しんでくれなくても、あなたのために生きて死んで共にいてくれるキリストが、共に苦しんでくれています。この何物にも代え難い恵みがあることを、聖霊は私たちに証明してくれました。私たちが苦しむとき。それは一人ではありません。私たちが悲しむとき。それは一人ではありません。共に苦しんでくれるキリストが、私たちの中に住んでいます。この現実世界のとのギャップや、自分を認めて完璧になれない自らに苦しむ人間と共に、キリストは苦しんでくださるのです。
 キリストと共に苦しみ、キリストと共に栄光を受ける。このことを証明してくれるのが、私たちの命である聖霊です。この目には見えなく、触れもしないけど確かに内側に根付いている聖霊が、私たちには与えられています。そして地上では共に苦しみ、将来はその栄光を共に喜んでくれます。聖霊によって私たちは天にあっても、地にあってもキリストによって導かれて、神様の救いに与かることが適うのです。
2023年5月21日(日)  説教題:「神様の正しさ」    聖書;ローマの信徒への手紙3章21~26節
 この箇所には「信仰による義」とタイトルが付けられています。ここで「義」とある言葉の意味は「正しさ」です。神様の正しさとは、人の目に正しいことではありません。神様にとっての正しさです。「何か善いことをしたのだから赦される」。「何か努力したから救われる」。そのように考えるのは人間の正しさです。そうではなく、ただ神様が人間を愛してくれたから赦される。ただ神様が選んだから救われる。人間の力に全くよらないで神様が恵みを与えてくださることが、神の義、神様の正しさです。
 神様は私たちにその正しさによって、贖いを通して救いがあることを示してくださいました。この赦しの恵みが私たちにはあります。それを神様は私たちが何もしなくとも与えてくれました。
 こうして「何もしなくても赦されている」と聞きますと、安心できる人と戸惑う人がいると思います。「タダより怖いものはない」という言葉に現わされていますように、人間には何もしないで恵まれて救われるというのは、なかなか理解できないのかもしれません。「ただ与えられる救い」という目に見えないものを信じることは、簡単にはできません。
 しかし、それをしてくれたのが神様です。私たちは「何かをしなくちゃ」と思うのですが、それよりもずっと前から神様は私たちに恵みをもって救いを示してくれました。私たちには不可解でも、神様にとってそれは「正しい」ことです。
 これは言い方を変えれば「一方的」と表現することもできます。私たちの考えや気持ちの準備に関わらず、ただただ神様は問答無用で約束し、そして救っていきます。そして何もせずに救われることを、聖書を通して教えていきます。私たちはこの一方的な救いに身を任せながら生きていくことしかできません。その一方的な神様の正しさに、委ねていくしかできません。
 そのように聞きますと、神様の一方的な救いが強引に感じられるときもあります。しかし、神様は私たちを悪いようにはされません。神様がその正しさによって人を救ってくださるのは、私たち一人ひとりを愛しているからです。神様の前に正しくもなく、何も神様にお返しをすることができないのが人間です。それでも、神様は私たちをただ好きだから、ただ愛しているから私たちを救い出してくださいました。私たちがキリストと出会えるようにして、信じて生きる道を与えてくださいました。この何ものにも代えられない恵みが、ただ愛によって神様から与えられています。そのような神様は、私たちを悪いようにはされません。私たちは神様の一方的な赦しと救いによって、そして愛によって、ただ神様によって、生かされているのです。

2023年5月14日(日)  説教題:「ユダヤ人として」    聖書;ローマの信徒への手紙2章17~29節
 パウロはユダヤ人として割礼や律法を誇る人たちの自負を打ち砕きます。それは彼自身も同じように誇りに思っていたからです。そのような自分が間違いであったと、イエス様の出会いによって気付かされます。パウロ自身もまた、割礼や律法に固執するあまり、神様に心を向けることができなくなっていた1人でした。それを神様に打ち砕かれたことによって、パウロは自分がまったく誇らしい存在などではないということに気付いたのです。
 私たちはどうでしょう。様々な肩書によって作られる世界を生きています。それが「ユダヤ人」や「日本人」という人種主義になってしまえば、かなりやっかいです。生まれた場所や民族を誇ることによって、聖書に書かれている人たちも多くの失敗をしてきました。それは聖書の時代だけではなく、歴史が証明しています。またこの国でも「日本人である」という誇りをもってしまえば、そこに将来はありません。同じ人間であるにも関わらず、肌の色や生まれた場所で命の価値を付けてしまうことは、神様が喜ばれる平和ではありません。誰かを虐げた先にまっているのは、決して幸せな社会ではないのです。
 自分のことや社会のこと。これらに共通しているのは、「自分を誇る」ということの愚かさです。パウロはこの愚かさをキリストによって気付かされました。私たち人間は、ただ神様によって拾っていただいた、そんな存在でしかありません。やたくさんの誇りや肩書を神様によって打ち砕かれていかなければなりません。私たちはまったく誇らしくなく、誉れや誇りは神様にのみあるのです。
 私たちは誇らしくない。パウロに気付きが与えられたのと同じように、私たち自身も誇らしくない存在です。そのような言い方をすると、自分自身や他人を否定しているような気持になっています。ですが、キリスト者にはとても大切な考え方です。自分たちのような誇らしくもなく、優れてもいない、そんな弱い人間を神様は選んでくれました。十字架のイエス様によって赦してくれました。そして聖霊を通してイエス様が一緒にいてくれます。これは私たちが誇るべき素晴らしい人間だからではありません。ただ神様が恵みによって選んでくれたからです。私たちは生まれた場所や宗教、考え方によって、誇らしく生きているのではありません。私たちは誇らしくなくても、素晴らしい神様の恵みが与えられています。私たちには誇りなどいりません。自分の力を誇らなくてもよいくらい、神様から多くの恵みをいただいているのです。


2023年5月7日(日)  説教題:「 召されたあなたがたへ」   聖書;ローマの信徒への手紙1章1~7節
 ローマの信徒への手紙は宗教改革や戦争など歴史の転換点で信仰者に影響を与えてきました。今日与えられたのはその最初に書かれている挨拶の部分です。パウロは自己紹介としてキリストによって伝えられた福音を語りました。約束された救い主が与えられ、それによって贖われて救われる。この福音によって知らされた良い知らせを伝えます。そのためにパウロが立てられたことが5節では言われています。「すべての異邦人を信仰による従順へと導くため」です。ここでパウロはユダヤ人だけが救われるのではなく、どのような民族的背景を持っていたとしても救われることを語りました。6節に「この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。」と書かれているようにです。神様が約束して与えられた救い主が全ての人に与えられたものであることを語り、そこにはこの手紙を読むあなた自身も含まれている。これが福音です。キリストを通して与えられた良い知らせは、あなたにも間違いなく届けられていることを、パウロはローマの人たちへ伝えたのです。
 先日の教会総会では「再出発」と題した宣教牧会方針を皆さんにお諮りし、それが承認されました。コロナ禍で自粛続きだった3年間を経て、これからいろんなことが再出発していきます。教会が行事やイベントを行っていくのは、伝道や宣教のためです。まだ教会に来たことがない人たちが来会してくれるように。そして今いる私たちの信仰生活がより豊かなものとなるように、教会は活動をしていきます。その中で忘れてはならない根本的なことが今日は示されていました。復活のキリストが私たちを「召された」。キリストによって「召された」ということは、キリストによって選ばれて、呼ばれたということです。私たちは自分たちの思いや考えを持っていますが、それを実現できていますのは、全てキリストによって召されたからです。今日ここに私たちが礼拝に参加しているのも、帰って一人で祈るのも、全て召されたキリストの働きです。私たちは「召された」一人です。パウロはこれをローマの人々に向けて明言しました。これはローマ人に向けて書かれた手紙ですが、聖書を通して私たちにも向けられています。この湖山で信仰生活を続ける私たちも、「イエス・キリストのものとなるように召された」一人です。イエス様はあなたを選びました。これは他の誰かのことではなく、間違いなくあなたのことです。キリストによって呼ばれて、キリストによって選ばれて、キリストによって救われた。この救いの為に呼ばれたのがあなたです。この救いへと招かれた私たちの根本的なことが、このみ言葉を通して、他の誰かではなく、間違いなくあなたに伝えられているのです。